越生 龍臺寺

越生町、県道30号線飯能寄居線沿いにある龍臺寺のホームページです。

真言宗と弘法大師空海

 

  弘法大師・空海(774-835)は、宝亀(ほうき)5年6月15日、現在の香川県善通寺市にお生まれになりました。15歳で都に上り、18歳の時に大学に入学します。大学では中国の哲学、思想を学びますが、やがて立身出世を目的とした大学の学問に疑問を感じるようになりました。
  そして24歳の時、「仏教こそが最高の教えである」という考えをまとめた『三教指帰(さんごうしいき)』を著すと、山野を巡り修行する出家修行者となり、各地で厳しい修行を重ねました。
  そしてある夜、大和国久米寺の東塔の下に仏教の究極の教えである密教を説いたお経、『大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう=略称は『大日経』)があることを夢で知り、この地を訪ね『大日経』にめぐりあいました。

  しかし『大日経』を読んでもその意味は十分にわからず、かといって、その疑問に答えてくれる師は日本にはいません。
  そこで師を求め、唐(現在の中国)の都・長安へ留学することを決心したのです。延暦23年(804)7月、31歳のお大師さまは九州長崎の松浦郡田の浦から遣唐使船に乗り長安をめざします。海上での暴風雨、長い陸路の旅など幾多の苦難に遭遇しますが、出帆して半年後、やっと唐の都・長安に到着します。長安では密教の師を求めて諸寺を歴訪し、ついに正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に巡りあいます。恵果阿闍梨は自らが受け継いだすべての教え、そして密教の奥義を余すところなくお大師さまに伝え、ここにお大師さまは密教の正統な後継者となるのでした。

すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまにすすめます。

  そこでお大師さまは20年間の留学僧としての勤めを2年足らずで切り上げ帰朝するのです。 帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を立教開宗し、京都の教王護国寺(東寺)、和歌山の高野山を拠点として活躍します。
  その活動は、宗教活動はもとより、社会活動や文芸活動、書など多岐にわたり、偉大な足跡を残されたのでした。
そして承和(じょうわ)2年(835)3月21日、高野山で62歳のご生涯を終え、入定されるのです。 (真言宗智山派ホームページより抜粋)


中興の祖・興教大師

 

  弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)です。

  興教大師は嘉保(かほう)2年(1095)6月17日、現在の佐賀県鹿島市に生まれました。16歳で得度(お坊さんになること)した興教大師は、やがて高野山に上り、大治(だいじ)5年(1130)、弘法大師の教えを学び、議論する学問所、伝法院(でんぼういん)を創建されました。こうして高野山は、多くの学匠の輩出とともに、昔の活気を取り戻していきます。

  しかし、長承(ちょうしょう)3年(1134)、興教大師が高野山金剛峯寺の座主になると、このような興教大師の改革を良く思わない一部の僧侶の激しい反対にあい騒動が起こるようになります。やがてこの争いは大きくなり、ついに興教大師は座主を降り、保延(ほうえん)6年(1140)、かつて寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られてしまいます。その後、根来山の整備をすすめますが、根来に移ったその3年後、康治(こうじ)2年(1143)12月12日、49歳で入滅されたのでした。

  興教大師覚鑁上人は、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。このため、真言宗中興の祖とお呼びします。
真言宗智山派の寺院で、宗祖・弘法大師と中興の祖・興教大師の両祖大師の御尊像をお祀りし、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」、「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」とお唱えするのはそのためです。
                                                                                               ( 真言宗智山派ホームページより抜粋)